二宮金次郎といえば薪を背負いつつも読書をする銅像が有名で
すが、その功績はあまりにも知られていません。
そんな僕も不勉強だったので少し調べてみました。
金次郎は天明7年(1987)に相模国足柄郡栢山村(現在の小田原
市)に生まれます。洪水で田畑を流された二宮家は、金次郎が14
歳のときに父が亡くなりその二年後に母を失い一家は離散と苦労
を絵に描いたような人なのです。
ところが金次郎は一生懸命勉学に励み、20代なかばで農民の出
であるにも関わらず小田原藩の家老の家に出入りするようになり
その家の経済をきりもりします。
今で言えば産業再生機構のチーフコンサルタントというところ
でしょうか。
やがて金次郎35歳の時、その手腕が小田原藩主に認められ藩は
大久保家の分家である宇津家の領地(下野国桜町領)の復興事業を
命じます。桜町領は、人口の減少が激しく農作物の生産において
は最盛期の30%近くにも落ち込んでしまい、まるで復興の手など付
つけられない最悪の状態。
これが転機です。
金次郎は、荒れ果てた桜町領の任にあたる事を決断するや自分
の家に家財道具そして田畑の一切を処分し、妻と2歳になる弥太
郎を連れ不退転の覚悟で旅立ちます。
今で言うならカルロスゴーンの日産V字回復プロジェクトと考
えればイメージしやすいいかもしれません。
金次郎は次々に復興の手をこうじます。たとえば村の見回りを
行う一方で、村民の投票によって働き者を選び、選ばれた者へ褒
美を与えるなど、生産意欲を高める手法を実施します。
これなどは現代でもモチベーション経営の重要な取り組みと一
致しとても興味深いですよね。
しかし領内には金次郎のやり方に反感を抱く者も出現します。
中でも同じ小田原藩から派遣された上役である武士は、農民出身
の金次郎の功績に強い妬みを持ち強固に反対を繰り返します。
堪りかねた金次郎は藩に辞任を申し出ますがもちろん聞き入れ
らるはずもありません。とうとう復興事業スタートから7年目の
正月。金次郎は「江戸へ行く」と言い残しそのまま行方知れずと
なるのです。
この件もなかなか人間的でいいですね。
ちなみにこの間金次郎は成田山で断食修行をしたそうです。
それから3ヵ月後、修行を終えた金次郎は125人もの出迎えを受
けて桜町に戻ります。問題は時間が解決するといいますが、金次
郎に反対していた上役は江戸に呼び戻され障害は取り除かれ次々
に荒地は耕し直されて生産は向上します。
さて金次郎による農村復興事業は「報徳仕法」とよばれる独自
の方式として広く烏山藩や谷田部藩などにも広まっていきます。
「報徳仕法」の特徴は、「勤労」「 分度(ぶんど)」「推譲(すい
じょう)」の三原則と言われていますが、実際には厳密に現地調
査を行なったうえ村民各自にふさわしい生活の支出の限度を決め
(分度)、余剰分は将来にそなえ貯えるか他人に譲る(推譲)とい
うことなのです。
これなんてマーケティングだけでなく地域通貨の概念も入って
て興味深いですよね!
天保8年(1837年)金次郎51歳のときに桜町領の復興事業は終
わり、領地の経営は宇津家に引き渡されます。
とにかく長い長い時間がかかってるんですね。どうやらこれは
自伝をちゃんと読んでみる価値ありっすね。