志と言えば、吉田松陰ですね。
彼の怒涛の人生を振り返りながら志を考えてみましょう。
松下村塾を興した吉田松陰は、幼少の頃から多くの師に恵まれ、孟子を
筆頭にたくさんの書に学び、なんと十一歳で藩主に講義を行ったことは有名
な話です。
また松陰は、あくなき知識・情報への探究心から長崎から青森まで実に
日本を二周する距離を歩き、行く先々で優秀な師および社会を揺るがすよう
な事件に出会い、幕府の政策を日本を憂います。
なかでも人生最大の衝撃といえば、松陰二十四歳の時に受けたペリー来航
でしょう。この日本を揺るがした事件との出会いによって松陰は密航を企て
失敗し萩に幽閉されてしまいます。
しかしこの一件から松下村塾が開かれ数々の英才を育てることになるので
す。また松陰は野山獄に幽閉されてすぐから一年間に五百五十四冊もの書を
読破し、翌年は五百五冊ついで翌年が三百八十五冊と約三年間で千四百四十
四冊を読みながら、同期間に四十五編もの著術を完成させたと記録されてい
ます。
松陰の例でいえば、幼少の段階ですでに「これからの国家を考える」とい
う大きな志を備え、その基礎の上に、優秀な師・本そして旅から得た大量の
知識、そして魂を揺さぶる大事件や次々に降りかかる苦難によって国を憂い
さまざまな想いを活動を重ねていったと言えます。
そして興味深いことは「これからの国家を考える」という基礎に揺るぎな
くとも、その方法や手段は、時代の情勢や人との出会いや事件によって大き
く変化したことです。
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吉田松陰『生まれ:天保元年8月4日(1830年9月20日)
没:安政6年10月27日(1859年11月21日)享年29歳』
実際に吉田松陰が松下村塾で教えたのは、たったの1年と1ヶ月。
三畳半の幽囚室でおこなった講義から通算しても、ほんの二年と十ヶ月と
いう短い期間でした。(杉家に幽閉されたのが西暦1855年(安政二年)
の十二月というから、約百五十年も前、松陰25歳の時の事です)このわず
かの期間に、久坂玄瑞や高杉晋作をはじめ多くの志士が育ったものだと驚か
されます。
しかも集まったのは、上級な武士の子息ではなく、むしろ日の当たらない
人達でした。(門下生には僧侶・商人・農民・足軽が集まっていました。
身分の差はなく全員が平等に扱われたそうです)
幕末とは革命であり、吉田松陰はそのリーダーでした。
松陰の教えた志は、革命と共にあったのです。松陰の志に多くの若者が
共感し幕末に身を投じました。
中でも私がもっとも激しく共感するのは、松陰が死を目前に高杉晋作へと
書いた手紙の中にある一文です。
「君は問う、男子の死ぬべきところはどこかと。
私も去年の冬から投獄されて以来このことを考え続けてきたが、
死についてついに発見した。
死は好むべきものではなく、また憎むべきものでもない。
世の中には生きながら心の死んでいるものもいれば、その身は滅んでも
魂の存する者もいる。
死して不朽の見込みあらば、いつ死んでもよいし、生きて大業を成し
遂げる見込みあらば、いつまでも生きたらよいのである。
つまり私の見るところでは、人間というのは、生死を度外視して、
なすべきをなす心構えこそが大切なのだ」
『吉田松陰・留魂録』古川 薫・講談社
「生死を度外視して、なすべきをなす心構え」
これこそ志の深い意味ではないでしょうか。